第1章.とにかく奨学金、奨学金、奨学金!  子どものころ〜学生時代

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(家にトラックしかなかった子供のころ) 私の父は中国地方の盆地で大工を営んでいました。子どものころ、私の家には大工用のトラックしかありませんでした。トラックには後部座席が無いので3人しか乗れません。6人家族全員そろって出かけた思い出はまったくありません。 母はスーパーの掃除係。トイレの掃除もやり、今でも続けています。だから私はスーパーのトイレで掃除をするおばちゃんを見かけるたびに心の中で挨拶をします(口に出すのは少し照れるので)。そしていつも母の苦労を思い出します。 家族全員乗れるクルマが無いので、出かける時は母がスーパーカブで先導をしながら私と二人の妹がその後ろを自転車でついていきました。カブと3台の自転車は15キロ離れた“街”まで出かけます。イズミというショッピングセンターで、「寿がきや」というラーメンを食べるのが至極の楽しみでした。母は良く私に「本だけはなんぼでも買うちゃるけんな」と言ってくれました。確かに貧乏でしたが本だけはたくさん買ってくれました。 (高校から既に奨学金) 高校は田舎の公立高校でしたが家が貧乏だったので奨学金で通いました。 高校の奨学金は中学校の担任の先生による予約で申し込んだのを憶えています。今から思えば先生にも貧乏そうに見られていたのかもしれません。 大学は「蛍雪時代」の広告で見た読売新聞の新聞奨学生を志願しました。 (新聞社の奨学生をやっていると、あわよくばその新聞社に就職できるのではという甘い魂胆もありました。結局、実現しませんでしたが。) 大阪の八尾市の高安というところで配達を始めました。これは想像以上に苦しかった。朝4時起き。卒業するときにデオデオという家電量販店で父が買ってくれた目覚まし時計で毎朝起きました。休刊日以外、休みなし。サークルは広告研究会に入りたかったけど、夕刊や翌朝のチラシのセットがあるのでサークル活動はできません。 雨の日の喫茶店に夕刊を入れるのがとても嫌で、同年代の子たちが喫茶店で「冷コ―=アイスコーヒー」を飲んでる横をカッパをシャカシャカいわせて夕刊を届けることは多感な19歳の心をギリギリと音がするくらい卑屈に捻じ曲げていきました。 初めての女子大との合コンのチャンス。待ち合わせ場所の(今はなくなった)北浜の三越前に行きましたが、夕刊配って翌朝のチラシをセットしてから出かけたので、着いたのは9時、当然誰も待ってくれてはいません。ひとり堺筋線と近鉄大阪線を乗り継いで高安駅までかえったのを憶えています。アパートまでがすごく遠かった。大学生になりきれない、なんとも言えない焦りを感じました。 新聞は拡張員さんという販売専門の方がセースルします。拡張員さんが強引な勧誘をして契約を取ってきたお家に集金に行くと、50歳過ぎの一見温和に見えそうなおばちゃんから、わけもわからず罵詈雑言を浴びせられ、「お釣りはあんたの手から受け取らんから。そこに置いといて。」といわれました。さすがにこれはこたえました。日が暮れた八尾の住宅街、田んぼも多かったのを憶えています。配達用のごつい自転車を漕ぎながら悲しくて涙が止まりませんでした。夕暮れで暗くて顔の表情が見えないのを幸いに、涙をいっぱい流してやりました。 こんな苦労は自分の子どもには絶対させたくはありません。 今年の3月末、千林商店街でスーパーカブの配達員の後を、白くて頑丈な配達用の自転車を漕ぐ眼鏡をかけた女の子を見かけました。(きっとこの春地方から大阪にやってきた子で)新聞奨学生をスタートし、順路帳を片手に配達順路を憶えている様子でした。これから過酷な日々を過ごす彼女・・・・・幸あれ!学生の頃の自分を思い出し胸が痛くなりました。 とにかく新聞奨学生でなんとか大学を卒業し、働いて稼ぐために社会人としての生活がスタートします。 第2章. 絶対に、絶対に向いていない“営業”からスタートした社会人

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