
絶対に、絶対向いていない営業からスタートした社会人
結局大学4年間新聞配達のアルバイトしかした事のなかった私は、新聞奨学生のコネで新聞社を目指しましたが現実はそんなに甘くはありません。
なんとか拾っていただいた広告会社に入社することができました。
営業は絶対向いていないと自覚していたので広告会社であれば志望はコピーライターかプランナー。当時広告会社は人気企業で、同期入社はみんな明るく元気で人当たりが良くて能天気なツルンとしたあか抜けた感じがして、4年間新聞配達と集金しかしたことなのない自分とはどうも“違うジャンルの人種”と言う印象をすごく感じました。
しかしながら配属は絶対に向いていない営業。広告会社で全く自信のない営業マンとしてスタートを切りました。
(同期はカラオケもうまく、お酒の銘柄や焼き肉の部位の種類もよく知っていてメニューを見るだけでどんどん頼める人でした。中でも体育会のボーリング部の出身者は素直で元気があって私とはまったく異人だというのをよく覚えています。)
営業には当然、ノルマがあります
当月の足りない売り上げ数字をどうやって積み上げるか。月曜日の会議はそのことばかりで日曜日の夜はいつも憂鬱でした。日曜洋画劇場終が憂鬱な週末の唯一の楽しみでした。
営業では「売れるまで帰れない」そんな日々が続きます。
ある日、日本海にも程近い温泉街でクルマでおろされ、先輩社員が夕方迎えにきてくれるということで歩いて広告の営業を行いました。
新人の登竜門、“ビル倒し”と称する営業ブートキャンプです。
しかし私の場合はビルではなく寂れた“温泉街倒し”でした。
5万円の広告を2万円まで値引いてやっと契約していただいて決まったのが2件。1日歩いて2件、4万円の売り上げです。
夕方迎えを待つ喫茶店で、深い西日がアイスコーヒーを照らすのを見ているとなんだか無性に悲しくなってきました。同期は、今日ポートアイランドの企業でプレゼンをやるというのを行っていました。今頃は三宮あたりでプレゼンボードをもって意気揚々と歩いているんだおろう。自分にはそんな華やかなステージとは無縁だ。何やってるんだろう・・・・・
既にほとんど氷が解けて水っぽい、味すら感じない無機的な飲み物になったアイスコーヒーを飲み干すと、さらに元気がなくなったのを憶えています。
あいかわらず売れない営業の日々。社名を言うだけで「広告はいらないから」と門前払いを受けることもあります。
私が困ったのは成果を日報に書けなかったことです。
お得意先訪問時、願うのはいつも「不在でありますように」。
不在で名刺を置くと日報に「不在」書けるからでした。そんなことの繰り返し・・・・・
人生で最も苦しんだパワハラ
転勤も経験しました。
ここが私の人生至上最も激しい時期になります。
上司からの激しいパワハラ。ひと言も口を聞いてくれない、短気で理不尽な直属上司。
あるときの日帰りクルマ出張同行、ひと言も口を聞いてくれなかったのはかなり心が折れました。お昼に入ったそばも味なんかしません。
人間が一番苦しいのは存在を認められない事です。
存在を認められないと自我が崩壊します。
いつ自分が壊れても、おかしくない、そんな状態が続きました。
このころちょうど私と同じように苦しんでいる同期もいました。
中学高校の同級生の訃報を聞いたのもこの頃です。
(このことについては後ほどお話ししたいと思います。私が今取り組んでいる副業プロジェクトのルーツになる出来事でした。)
営業ではお得意先の仕事の関係で土日も仕事になる日もたくさんあります。
しかし土日出勤でも代休を取ることは実際に難しかった。休みを取ると自分の生産時間が減るわけです。
「休んでも数字が達成できればいいよ」という真綿で首を絞めるような口調で言われると、数字のなかなか達成しない私は平日に休みなんてとれません。
仕事の途中、引っ越してきたばかりのアパートに帰って両開きのクローゼットを開けて良くその中に頭だけを突っ込んで泣いていました。
その頃加藤諦三氏の『辛さに耐える心理学』とか、本多信一氏の『内気な人の営業にはコツがある』『内気だから成功できる』などの本を鞄の中に入れて移動中の電車の中や、駐車場のクルマの中で良く読みました。
毎週月曜日にはコンビニでリクルートから出ている就職情報誌を買いました。
何か良い会社があるのでないかという、期待感があり、毎週就職情報誌を見るのがいつのまにか月曜日の朝の日課になっていました。
このまま営業なら自分はつぶれてしまう。自分の得意なことは何か。
自信や根拠はありません。ただとにかく営業から逃げたかった。
月刊宣伝会議の後の方に載っていた半年間のマーケティング・プランナー講座の案内。当時の受講料は20万以上!しました。
受講料を貯めるために会社に内緒で新聞配達のバイトをしました(よく考えればこれが私の副業の最初でした)。
大学時代新聞奨学生の経験があったからコツは心得ています。
しかし毎日朝刊を配ってたったの2万円。毎朝4時に起きて一仕事して会社に行って10時過ぎに帰るというそんな生活は長くは続きませんでした。
宣伝会議の受講料の半分は半年間で稼いだものの、とても1年は待てなかったので半分は母から借りました。
宣伝会議には半年間、1コマも漏らさずに参加しました。自腹で参加しているので毎回一難前の席に座って、講師の方との名刺交換は必ずしました。
当時は四ツ橋線の靭公園の近くに教室がありました。
マーケティングの本もたくさん読みました。昼のご飯代のお金を本に換えていました。
神田昌典氏の「顧客獲得実践会」に入ったのもこの頃で2年間、ニューズレターを読みました。(顧客獲得実践会はダイレクト・レスポンス・マーケティングの日本での本格的な実践モデルだったのですが、個人企業や中小零細企業向けのゲリラ手法だったと解釈し、当時の私のお得意先の提案や実務にいかす機会はあまりありませんでした。)
営業から変えて欲しい=ゲリラ作戦の決行
しかしですね、とにかく今の営業から逃れたかった。
もともとが内向的。向いていない営業。
ノルマを達成する自信なんてまったく、ない。
「そうだ、直談判しよう!」
ある日、ふと、そう思いつきました。
営業から脱出するためには、それしかない。
でも、ただ単に、営業から企画職へ替えてくださいと言っても何の説得力もありません。
そこで考えたのは、経営陣への自分プレゼン。
・自分が目指しているもの。
・そのために今、取り組んでいること。
この2点をプレゼンテーションしてみよう!と思いついたのです。
経営陣へのプレゼンテーションと言っても、
執行役員会でそんな場を設けてくれるはずはありません。
取った手法はゲリラ作戦です。
私の場合は、自分プレゼン企画書を作り、当時の専務と社長へ※直接届けました。
(※誰に出すか、ここは非常に需要。360度見渡して、どこが一番てこが効くか?見極めましょう)
それはまさしく文字通り、紙爆弾。
誰にも内緒で、今やっていることを、かなり盛って企画書に仕上げました。
その結果、2月の初めに内示が出ました。
願いがかなって、部署の移動です。
人事異動を直談判した、その企画書を公開!
この紙爆弾については、すでに時効(?)も来ていると思いますので、
実際に公開させていただいています。
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第3章.営業から企画へ・・・自ら人事異動を発令させた、私のその後
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